御霊神社のお由緒
創祀は、平安時代に書かれた
『文徳天皇実録』の嘉祥三年(八五〇)に
八十嶋祭の祭場とされた
圓神祠にはじまります。
この圓神祠こそが、
御霊神社の始まりで、
千年以上の歴史がうかがえます。
御神事・御神徳
・天照大神荒魂(瀬織津比売神)
・津布良彦神(旧摂津国津村郷の産土神)
・津布良媛神(旧摂津国津村郷の産土神)
・応神天皇(広幡八幡大神)
・源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)
五柱
浪速の氏神として多くの氏子崇敬者の崇敬を集めていますが、古来、開拓、治水、生産、商業、文化、生命、厄病平癒、生活、交通、安産の守護神として仰がれ、特に厄除け、縁結び、諸事円満成就、開運招福、商売繁盛、夫婦円満、子孫繁栄の神様として格別な尊崇を受けています。
 
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御霊神社は、古来、北船場の淀屋橋から本町、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、西本町、江之子島、南北堀江の西部等の旧摂津国津村郷の産土神として、多くの氏子・崇敬者の崇敬を集めています。浪速の氏神として、特に厄除け・縁結びの神様として格別の尊崇を受けています。
創祀は、平安時代に書かれた『文徳天皇実録』の嘉祥三年(850)に八十嶋祭の祭場とされた圓神祠にはじまります。
この圓神祠こそが、御霊神社の始まりで、千年以上の歴史がうかがえます。
八十嶋祭とは、平安時代の記録に残る天皇の即位礼の大嘗祭の翌年行われた皇位継承儀礼の一つです。
難波の地は、琵琶湖から流れてくる淀川と、大和から流れてくる大和側とが運んでくる土砂によって干潟ができあがりました。そして、その干潟に、島ができ、その島が繋がって、今日の大阪が出来上がったといいます。当時その干潟に形成された島は、大小多くの島という意味の八十嶋とよばれていました。百人一首のわたの原 八十嶋かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船という参議・小野篁の歌が有名です。 その八十嶋の地は、圓江と呼ばれ、新しく天皇が即位され大嘗祭が行われた翌年、次の天皇の新しい時代を祈願する八十嶋の祭が執り行なわれていた場所でもあります。
京都から難波にくだってきた陰陽師は、圓江の海岸に祭壇を設け、豊かなお供え物をしました。女官であるな内侍が預かってきた天皇の御衣を何度か西の海に向かって打ち振り、ケガレを祓い落として、祭りが終わるとお供え物を海に投げ入れました。その祭壇の場所に祠を建てたのが、圓神祠であると考えられています。
その場所が、御霊神社の前身である圓江神社、現在の西区靭本町一丁目にある楠永神社辺りだとされています。
御霊神社の前身が靭にあったことを記念して、境内に「うつぼの碑」が建てられました。
御霊神社は古くは圓神社、津村神社といわれた古社であり、御霊神社の南に接している西本願寺の津村別院、俗称・北御堂とともに、平安時代の圓江の名を今日に伝えたものです。
時代は下り、豊臣秀吉公の大坂居城とともに政治経済の中心地として発展し、諸大名の崇敬厚く寄進も相次ぎました。中でも後の津和野藩の祖である亀井茲矩侯が邸地を割いて寄進され、圓江神社は、文禄3年(1594)に、船場の現在のこの地に移りました。
その邸地内に祭られていた源正霊神こと鎌倉権五郎景政公の霊と共に祀られることになりました。鎌倉権五郎景政公は、平安時代末期の武将で豪快な武勇伝を残された方で、特に武家に信仰を集めていました。鎌倉権五郎の権五郎から五郎ノ宮、そして「圓御霊」となり、江戸時代の元禄9年(1696)に御霊大明神、御霊神社と改称いたしまして、今日まで船場の御霊さんと親しまれています。
宝暦3年(1753)正一位の神階を授けられました。また、伏見宮家より神輿修復の御寄進を賜わり、幕府からも城代巡見社として崇敬を受けました。
また、豊臣秀吉公が、城下町の整備を進める中、京都伏見の呉服商人お大坂の上町に集め、黄金の恵美須神像を下賜され、伏見呉服町と称しました。江戸時代に入り、呉服商人たちは現在の大阪市中央区伏見町へ移り、恵美須神像を伏見呉服町の守護神としました。「呉服恵美須」が転じて「五福恵美須」として崇敬され祭祀が行われてきました。江戸時代の船場は、呉服業者、唐物商(現在の貿易商)が隆盛を極めており、これらの商人の中で呉服商の墨屋作兵衛(寛政4年(1792)没)という人が財をなし、その邸内祀られていましたが、墨屋作兵衛には子孫がなかったことから遺言により遺産を町内に寄付し、邸は町会所として利用され、遺産は呉服橋の永代修理、恵比寿神社祭費に用いられました。明治39年(1907)にも五福恵美須神社と御神像は御霊神社に合祀されました。現在は、御霊神社東宮に祀られており、毎年1月9日・10日に五福恵美須祭を斎行しております。
御霊神社の神幸祭は、江戸時代初期に始まったものと伝えられています。諸大名の蔵屋敷が中之島を中心として建てられると、それに伴う商取引が活発になり、地域の産土神である御霊神社の祭祀が、隆盛を迎えます。
諸大名、特に西国大名からの崇敬も厚く受け、御太刀、神馬などの寄進により、武家による供奉は荘厳な祭り行列、武者行列をなしていました。
安永9年(1780)よりは、御神輿を淀屋橋南詰の浜より船に遷して、大川筋を下り、今の南堀江のお旅所までの船渡御も行われていました。十二艘もある船に大篝火を乗せる船渡御は壮観かつ華麗であったことから浪速名物の一つに数えられました。
この船渡御は、蔵屋敷の廃絶とともになくなり、明治維新後に陸渡御となりました。
さらに、永らくの間、斎行されずにいた船渡御・武者行列は、平成23年(2011)に復活を果たします。現代においても、荘厳な祭りは色あせることなく、壮観かつ華麗でもあります。
文化面としては、御霊神社は上方落語家の松田弥助が京都から下って店を開いたところです。弥助は大阪落語中興の人といわれる初代・桂文治の師匠にあたります。ですから、彼は「大阪の寄席の始祖」といってもよいでしょう。
また、御霊神社は、江戸時代後期、子供芝居・中ウ芝居(ちゅうしばい)の興行場所としても有名でした。十一代目・片岡仁左衛門も秀太郎時代にここで修行しています。
江戸時代当時は、神仏習合の時代でして、当社の境内にも神社とともに神宮寺「宝城寺」があり、十一面観音様が祀られておりました。
寛文年間(1661~1672)、大坂にも西国三十三ヶ所霊場めぐりにならい、「大坂三十三ヶ所観音参り」がつくられました。
一番札所・太融寺から時計回りに、第三十三番札所である御霊神社までの寺社を詣でることで、西国三十三ヶ所を遍路した同じご利益があるとして、庶民の信仰を大いに集めました。
このことは、近松門左衛門の「曽根崎心中」に当社が「大坂三十三ヶ所観音参り・三十三番札所」の霊場として書かれており、文学史上からも確認することができます。
現在も、毎年文化の日の11月3日には、参拝者が大勢訪れます。
その当時の境内は、今より広かったようでして、明治時代の神仏分離令により、そのお寺の敷地が切り離されました。現在も神社の南側に鳥居だけが残っております。
御霊神社は、船場言葉の御寮人(ごりょんさん)(商家の若奥様)と語呂が似ているところから、御霊さん(ごりょうさん)や御霊はん(ごりょうはん)と親しみをもって呼ばれてきました。
船場の商家はもとより山片蟠桃先生、緒方洪庵先生、福沢諭吉先生をはじめ懐徳堂や適塾の塾生も参詣されたと言われ、「朝詣り」と「十六夜店」は特に有名で、古書にも「例月一六の六斎日には夜店あまたでて賑わし」とあります。また、谷崎潤一郎の『春琴抄』に佐助が、「御霊様に祈願をかけ朝夕拝んでおりました効があって有難や望みが叶い…」とあります。
また、講談の土田席、落語の文団治席などの常設小屋もあり、大阪人の社交の場・船場商人たちの商談の場として大変賑わっていました。
御霊神社を中心とした平野町淡路町一帯は、市内の五大商店街の一つに数えられ、羽二重造花商をはじめ北船場の服装雑貨や家庭用品の提供場所であり、また、文楽をはじめ多くの生活文化の中枢として繁栄を極めました。
御霊神社はいうまでもなく、大阪文化史を考える上に大きな役割を果たしてきたと考えられます。
境内には明治17年(1884)から大正15年(1926)まで人形浄瑠璃の常設小屋・御霊文楽座があり、文楽200年の歴史のうちで、もっとも華やかな時代をつくりました。
現在は、境内に御霊文楽座跡の石碑があります。
さらに、明治時代中期から大正時代へかけて、御霊文楽座とともに境内には錦影絵の常設小屋である尾野席(のちの落語席あやめ館)がありました。今の幻燈に類する錦影絵は、上方芸術として大衆の好評を受け、アニメーションの先駆けとされます。
大正2年(1913)に府社に列しましたが、大正15年(1926)に文楽座が出火し、本殿も焼失。昭和5年(1930に再建しましたが、昭和20年(1945)の空襲によりすべて炎上しました。戦後の昭和32年(1957)に御社殿を再興いたしました。御本殿の建築様式を「錣屋根 入母屋造」といいます。錣とは武士の兜などを垂らし後頭部を保護する覆いのことで、錣屋根とは大棟から軒までを一枚の面ではなく、一段の区切りをつけて葺く形式をいいます。京都御所の紫宸殿や四天王寺金堂などもこの形式が用いられています。
ついで昭和34年(1959)に鳥居玉垣を再建し、年を追って往時に勝る神社の威容を取り戻しています。
本殿の北隣に茂るクスノ木の御神木は、戦時中の激しい空襲にも耐え、境内で唯一焦げた状態から再生いたしました。当時、お参りした人のやけどが回復した言い伝えもあり、以来、美肌の救世主と信仰をあつめています。 大ヤケドを負っているにもかかわらず今なお成長し続けていることから、このクスノ木は「肌守りの木」と呼ばれ、拝むと肌によいと言い伝えられています。木を見上げれば、伸びやかな枝っぷりと葉の瑞々しさにあやかり、幹に手を触れて祈れば、より一層のご利益があるとかで、オフィス街の隠れた聖地として注目を集めています。
また、平成10年にもとの御霊文楽座跡に200名を収容できる舞台付きの小ホールの役目を持つ儀式殿を建て、文楽・落語・日舞・文化講演会などの活動や地域の活性化に役立てています。
さらに、永らくの間、斎行されずにいた船渡御・武者行列は、平成23年(2011)に復活を果たします。現代においても、荘厳な祭りは色あせることなく、壮観かつ華麗でもあります